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大人の音楽再開

ヴァイオリンを大人から始めるのは遅すぎるか — N響の山岸が答えます

NHK交響楽団 第1ヴァイオリン 次席奏者の山岸努が、大人からのヴァイオリンについて、N響の現場と桐朋時代の経験、教室で見てきた大人の生徒さんの実例から答えます。

NHK交響楽団で第1ヴァイオリンを弾いている山岸努です。N響の本業と並行して、室内楽の活動と、個人レッスンで大人の生徒さんを見てきました。

「ヴァイオリンを大人から始めるのは遅すぎますか?」というご質問をよくいただきます。

結論から書きます。プロのオーケストラに入ることが目的でなければ、遅すぎることはありません。私が10年以上、大人から始めた生徒さんを見てきた実感です。

ただし、「遅くない」を抽象論で終わらせると、何の役にも立ちません。本記事では、私が現場で見てきたことを3つの角度から、できるだけ具体的に書きます。


本記事を読み始める前に、お伝えしたいこと

  1. PaletteTone に動画をお送りいただくときは、撮影は手元のみで構いません。顔も本名も出さずに参加できます。動画は会員限定の Facebook 非公開グループ内だけで共有され、外部の SNS や Google には一切出ません。
  2. 本記事はヴァイオリンが中心ですが、ピアノを長くやっていた方や、ピアノを独学で続けてきた方向けの節を、本記事末尾に置いています。途中で離脱されずに、最後までお読みいただける構成です。ピアノだけを続ける予定の方も、最後の節「N響に進まれない99%の方へ」は読む価値があります(楽器を問わない、大人が音楽を続けることそのものへの話です)。
  3. 文中で出てくる「Palette Hour」は週1回 Zoom での聴き合いの場です。カメラオフ・聴くだけ・参加自体が任意で、ご自身の演奏を出すかどうかは完全に自由です。
  4. 「動画を出すのが怖い」というご相談は、本記事の中盤で正面から扱います。

1. 大人の脳が、子どもの脳より上回るところ

子どもの脳は、反復による身体記憶の獲得に強い特性を持ちます。これは事実です。

一方で大人の脳は、別の場所で勝ちます。楽譜の構造、和声の進行、フレーズの意味を、言語化して理解する能力です。Aniruddh Patel “Music, Language, and the Brain”(2008、音楽認知の標準的な研究書。同書では、音楽の構文的処理に関わる脳領域が、言語処理と部分的に共有されることが論じられています)など、音楽認知の領域でも、成人後の構造理解能力は子どもより高いとされています。

私が見てきた具体例で言えば、こんな方がいらっしゃいました。

40代で始められた男性で、初めて触る楽器がヴァイオリン。指は最初、まったく動きません。当然です。しかしレッスンで「この6小節は、最初の動機の倒立で、調が二度下がっています」と話すと、その意味を即座に飲み込まれる。次の週には、その6小節を「動機が倒立した」表現で弾こうとされる。子どもの生徒さんでは、ここまで構造を持ち込めません。

技術が後からついてくる、というより、構造の理解が先に立って、技術がそこに向かって伸びていく順番です。これが大人の学び方です。


2. 最初の3ヶ月で姿勢が決まる、という現場の事実

ヴァイオリンの最大の難所は、技術ではなく姿勢と構えです。これは反射的な習慣として身につくため、最初の3ヶ月にどう構えたかが、その後の数年を左右します。

私が桐朋時代に師事した辰巳明子先生からも、堀正文先生(元 N響コンサートマスター)からも、繰り返し言われたのは、「間違った構えで弾く時間を減らせ」でした。

大人から始められた方が独学で持ち込まれる典型的な癖が、次のものです。

  • 左肩の上がり:ヴァイオリンを支えようとして肩に力が入る → 1年経つと首・肩の痛みで弾けなくなる
  • 右肘の沈み:弓を支えようとして肘が下がる → 弓元での圧が抜け、ピアニッシモが出せない
  • 顎の押し込み:楽器を顎で押さえようとする → 顔の筋肉が固まり、ヴィブラートが動かない

これらは、一度固まると修正に数ヶ月かかります。逆に、最初の3ヶ月で第三者の目が入っていれば、ほぼ防げます

大人から始めた40代の生徒さんで、最初の3ヶ月だけ毎週レッスンを受けて、その後は月1回の動画添削に切り替えた方がいらっしゃいました。その方は、5年経った今、室内楽のアマチュア合奏に参加されています。同じ時期に独学で始めて、肩の痛みでやめていった方を、私は何人も知っています。

(なお、ここに書いた「最初の3ヶ月で第三者の目が入った群」と「独学のみの群」の継続率の比較は、私が10年以上の指導で見てきた印象に基づくもので、現時点では分母を伴う追跡データではありません。当教室で進行中の継続率の集計が揃い次第、別の記事で数字を開示する予定です。)


3. 「聴く力」は、技術より先に伸ばせる

ヴァイオリンの音色は、弓の速度・圧・接弦点・運弓角度の4つで作られます。これを言葉で説明されても、最初は再現できません。

しかし、良い音と良くない音を聴き分ける耳は、技術が追いつく前から鍛えられます。これは大人にとって決定的に重要です。

具体的に何を聴くか、私が生徒さんにお勧めしているのは、たとえば次のような聴き方です。

  • 同じ曲の、違う演奏家の録音を聴き比べる。たとえばバッハ無伴奏ソナタ第1番のアダージョを、シェリングの録音とギトリスの録音で聴く。テンポも音色もまったく違うが、どちらが「正解」というのではなく、どこで弓の速度が変わっているか、どこで接弦点が動いているかを耳で追う。
  • 自分の演奏を録音して、3日空けて聴き直す。直後に聴くと修正点しか見えないが、3日空けると「思ったよりひどくない」「ここは意外に良い」という客観性が戻ってくる。
  • 同じ曲を、毎週録音して並べる。3ヶ月分並べると、自分でも気づかなかった変化が、自分の耳で確認できる。

技術より、耳が先に育つ。これは大人だからこそ起こります。


動画を出すのが怖い、というご相談について

これは新しく入会される方のもっとも多いご相談で、独立して書きます。

ヴァイオリンの場合、左肩・右肘・顎の構えが録画に残ることが心理的な負担になる方が多くいらっしゃいます。私が現場でお伝えしているのは、次の4点です。

  • 手元のみで構いません(全身も、顔も映さない)
  • 本名は出さなくて構いません(ニックネームで参加されている方が会員の過半数です)
  • 動画は会員限定の非公開グループ内だけで共有されます(外部に出ません)
  • 失敗の動画を残しても構いません(撮り直し前提で構いません)

そして、ヴァイオリンの場合に特に重要なお伝えごとがあります。姿勢の確認のためにご希望される場合は、肩から上の角度で撮っていただくこともできます。これは「顔出し」ではなく「構えの確認」のための画角で、それでも本名は不要です。

「全身を映さないと添削できないのでは」というご質問もありますが、最初の数本は手元のみで十分です。ご希望のタイミングで、画角を広げていけば構いません。


Palette Hour について

文中で出てきた「Palette Hour」について、少し丁寧に書きます。

これは週1回、Zoom で会員と講師が集まって、演奏を聴き合うオンラインの時間です。重要なのは、次の点です。

  • ご自身の演奏を出すかどうかは完全に任意です
  • カメラオフでの参加が可能です(顔を出す必要はありません)
  • 「聴くだけ」の参加ができます(コメントも任意です)
  • 参加自体が任意です(欠席しても問題ありません)

最初の1ヶ月は聴くだけ、という参加の仕方をされている方が多くいらっしゃいます。私の経験では、聴くだけの参加でも、他の方の演奏と私のコメントを通じて、ご自身の耳が育っていくのが分かります。


楽器選びについて:N響奏者として、いくつか

「最初の楽器に何を買えばいいですか?」というご質問にも、よくお答えします。

結論として、初学の3〜5年は、20〜30万円台の量産楽器で十分です。それ以上の楽器を最初に持つ必要はまったくありません。私自身、桐朋に入学するまでは、いまの基準で言えば手の届く価格の楽器を弾いていました。

ただし、20〜30万円台の楽器でも、避けるべき構造があります。

  • 指板が短い・幅が合わない(ハイポジションに上がれない、ヴィブラートが効かない)
  • 駒の高さが合っていない(弓の角度が不自然になり、音色が痩せる)
  • 魂柱(こんちゅう)の位置がずれている(中音域が抜ける)

これらは、量産楽器でもきちんと調整されていれば問題ないのですが、ネットの安価な販売では調整されていないことがあります。

最初の1本は、信頼できる弦楽器専門店で、店員さんに「大人から始める、最初の1本」と伝えて選んでもらうのが最も安全です。試奏時は店員さんにも弾いてもらい、自分が弾いたときと音の違いを確かめてください。

初年度の総額の目安は、こうなります。

項目価格レンジ
ヴァイオリン本体20〜30万円
5〜15万円(本体価格の25〜50%が目安)
松脂・肩当て・調弦器・ケース合計 2〜5万円
半年〜年1の調整(駒・魂柱・毛替え)1〜2万円/回

初年度合計の目安: 30〜50万円。これ以上の予算は、5年弾き続けてから考えて十分です。


ピアノを長くやっていた方・独学で続けてこられた方へ

私の生徒さんで、ピアノを長くやっていた方が、大人になってからヴァイオリンに移行された例がいくつかあります。また、退職後にご夫婦で別の楽器を担当されている例もあります(奥様がピアノを再開され、ご主人がそれに刺激されてヴァイオリンを始められた、というご家庭です)。

ピアノ経験者の方には、有利な点と、戸惑う点があります。

有利な点:譜読み・和声・リズム感はそのまま使えます。室内楽への入り方も早いです。アンサンブルにおける「他のパートを聴きながら弾く」という発想を、すでにお持ちです。

戸惑う点:音程をご自身で作る楽器に慣れていません(ピアノは押せば鳴る)。最初の3ヶ月は、左指の置き位置が決まらない感覚に苦しまれます。

PaletteTone では、ピアノは垂野 鮎子、ヴァイオリンは私(山岸 努)が添削を担当しています。ご夫婦で別の楽器を学ばれる場合、あるいはピアノを独学で続けてこられた方がヴァイオリンに興味を持たれた場合、同じ場で両方の添削が受けられます。月額は変わりません。

ピアノを独学で続けてこられた方は、ピアノの記事(「大人がピアノを再開するときの4つの壁」「動画添削と通学レッスン、それぞれが届くところ」)もあわせてお読みください。


最後に:N響に進まれない99%の方へ

私自身、いま教えている大人の生徒さんで「演奏家になりたい」とおっしゃった方は、お一人もいらっしゃいません。

「室内楽の合奏に入れたら」「結婚記念日に妻にハイドンを贈れたら」「孫と一緒に弾けたら」「定年後の毎朝、30分だけヴァイオリンに触れる時間を持てたら」。そういう動機の方ばかりです。

それらは、私の本業(N響での演奏)より劣ったものではなく、私が個人レッスンを続けている理由そのものです。N響に進まれない99%の方の音楽の方が、私にとっては大切に思える時間です。

「遅すぎますか?」というご質問への、私からのもうひとつの答えです。


よくある質問

Q. 何歳から始めるのが遅すぎますか?

「弾く楽しさ」を目的にするなら、年齢の上限はありません。私の知っている範囲では、70代から始めて、室内楽のアマチュア合奏に参加されている方がいらっしゃいます。

Q. 子どもの頃に少しだけ習っていました。再開はどこから?

しばらく弾いていなければ、初心者と同じく構えの確認から入ることをお勧めします。手の記憶は残っていても、構えの癖はリセットされていることが多いです。

Q. ヴァイオリンとピアノ、どちらが大人から始めやすいですか?

最初の3ヶ月の難易度はヴァイオリンが上です。音程と音色を同時に作る楽器であるためです。ただし、3ヶ月を越えればその後の伸びは個人差が大きく、楽器選びは「どちらの音色が好きか」で決めて構いません。

Q. 楽器の試奏に同行いただくことはできますか?

別途料金で、群馬県高崎市の当教室にお越しいただける方には対応しています。遠方の方には、ご検討中の楽器を撮影した動画をお送りいただければ、画面越しに意見を申し上げます。


執筆: 山岸 努(NHK交響楽団 第1ヴァイオリン 次席奏者。桐朋学園大学卒(2008年)、辰巳明子・堀正文ほかに師事。日本モーツァルト音楽コンクール 第1位・大賞、全日本音楽コンクール入賞、千葉市芸術文化新人賞受賞)

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