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大人の音楽再開

大人がピアノを再開するときの4つの壁

桐朋の門下から離れて20年経った方も、子どもの頃にバイエルで止まった方も、退職後にはじめて鍵盤に触る方も。再開がうまくいかないのは、意志の問題ではなく構造の問題です。垂野鮎子が現場で見てきた4つの壁。

ピアノ教室を主宰している垂野鮎子です。当教室は4歳のお子さんから70代の再開組まで指導していて、特にこの10年は「大人になってから再開したい」というご相談が増えています。

そして同じくらいの数で、再開して半年以内にやめていく方も見ています。意志が弱いのではありません。4つの構造的な壁があり、そのうちのどれかに引っかかると、再開は止まります。

本記事ではその4つを、ひとつずつ分解します。


本記事を読み始める前に、お伝えしたいこと

PaletteTone に動画をお送りいただくときは、撮影は手元のみで構いません。顔も本名も出さずに参加できます。動画は会員限定の Facebook 非公開グループ内だけで共有され、Google や外部の SNS には一切出ません。退会は1クリックで、引き止めや煩雑な手続きはありません。

本記事は、この前提を読んでいただいた上で読まれることを想定しています。


本記事で扱う4つの壁

テーマ
第1の壁1日1時間という幻想(時間の壁)
第2の壁過去の自分との比較(感情の壁)
第3の壁1曲を完成させるという呪縛(完成主義の壁)
第4の壁自分の演奏を、人に聴かれることへの恐怖(露出の壁)本記事のいちばんの主題

完璧主義の傾向がある方は、第4の壁がいちばん大きい場合が多くあります。第1〜3を読み飛ばして、第4の壁から読まれて構いません。退職されてから再開された方は、本記事末尾の「第5の壁・退職後の方へ:時間がありすぎる壁」をご覧ください。


はじめに:あなたが「どこから再開する方」か

再開組と一口に申し上げても、出発点は大きく分かれます。

  • A. 子どもの頃にバイエル〜ブルグミュラーで止まった方(再開時に「楽譜が読めなくなっている」感覚)
  • B. ソナチネ・ソナタアルバムまで進んだ方(再開時に「指は何となく動くが、子どもの頃の自分には届かない」感覚)
  • C. コンクール経験・音大進学を考えたレベルまで弾けた方(再開時に「弾けていた自分を、いまの自分が裏切っている」感覚)
  • D. 大人になって初めて鍵盤に触る方(出発点が明快、ただし孤独)
  • E. 退職後に時間ができて、これから本格的に取り組まれる方(時間がありすぎるという、逆の壁)

A〜Eで、壁の現れ方が違います。本記事はどの出発点でも読めるように書きましたが、特にCの方は「自分のことが書いてある」と感じられる節があるはずです。


第1の壁:1日1時間という幻想

大人がピアノに割けるまとまった時間は、現実には1日10〜20分が上限です。仕事と家事と睡眠を引いた残りに、毎日1時間の練習をはめ込むのは、ほとんどの場合スケジュール上、不可能です。

それなのに、「1時間練習しないと意味がない」と思い込むと、次の流れが起こります。

  1. 今日は1時間取れなかった → やらない
  2. やらない日が続く → 「自分はできる」という感覚が下がる
  3. ピアノに触ること自体が遠のく

越え方は、**「1日10分でいい」**と前提を書き換えることです。具体的には、こうです。

1日10分 × 週5日 × 52週 × 5年 = 約217時間

決して音大の練習量ではありません(参考: 音大ピアノ専攻の正式なレッスン+伴奏合わせ時間は、4年でおよそ1,500時間です。これに個人練習を含めれば、音大生は4年で4,000〜6,000時間以上を弾いています)。それでも、217時間あれば、両手のソナチネが1〜2曲、丁寧に仕上がる目安です。

10分の続け方の例(私の生徒さんの実例):

  • 平日 21:30〜21:40、電子ピアノで4小節だけ
  • 朝食後の15分、和声の確認だけ
  • お子さんが寝た後、譜読みだけ。指は動かさない

「鍵盤を弾く」だけが練習ではありません。譜読みや内声の確認、楽譜への書き込みも練習に含めて構いません。


第2の壁:過去の自分との比較

再開された大人の方が直面するのが、過去の自分との比較です。

  • Aの方: 「ハ長調以外で指が止まる」「子どもの頃はもっとスラスラ読めた」
  • Bの方: 「ソナチネをやっていたのに、いま全音版を開いても進まない」
  • Cの方: 「あのバラードを通せたあの夏の自分を、いまの自分が裏切っている」

特に C の方の苦しさは深く、私自身が桐朋で同期だった友人に何人もそういう方を見てきました。一度きちんと弾けた人間にとって、「下がった自分を受け入れる」過程は、初心者として始める方より、ずっと険しいものです。

越え方は、比較対象を「先週の自分」だけに絞ることです。

「先週は弾けなかった3小節が、今週はテンポを落とせば通せる」「先週は内声が聴こえなかったが、今週は左手のラインを意識できた」。過去の自分や、他人の演奏動画と比較すること自体を、練習から除外します

これは精神論ではなく、気持ちの使い道の話です。比較に使っている気持ちを、譜面を聴く・指を観察するほうに回せば、その分だけ上達します。


第3の壁:1曲を完成させるという呪縛

通学レッスンは「1曲を完成させて発表会で弾く」を標準モデルにしています。これは19世紀以降の演奏会文化が前提にしてきた学び方で、子どもには機能しますが、大人のスケジュールでは破綻しがちです。

1曲を3ヶ月かけて仕上げる時間が取れず、途中で挫折し、次の曲に手を出して、また途中で止まる。手元には未完の曲が3〜5曲積み上がる。これが、再開組がやめていく前夜の典型的な状態です。

越え方は、「曲を完成させる」をゴールから外すことです。

4〜8小節を弾けるようにして、そこに対して添削を受け、また次の4小節へ進む。曲が完成しないまま次の曲に行ってもよい、ということにします。

これは「妥協」ではありません。子どもの頃の演奏会文化を、大人の生活時間に合わせて分解しなおす、という発想の切り替えです。


第4の壁:自分の演奏を、人に聴かれることへの恐怖

ここが、再開組の壁のうち、もっとも語られないものです。そして、完璧主義の傾向がある方にとっては、もっとも大きな壁です。

「先生に聴いてもらうのが怖い」「録音した自分の演奏を再生できない」「上手な大人の動画を見ると、自分は絶対に出せない」。

この壁の中で起きていることを、もう一段、言葉にします。

  • 失敗の証拠を残したくない(下手に弾けた瞬間を、動画として固定したくない)
  • 下手な自分を、自分の耳で聴くのが怖い(録音再生のボタンが押せない)
  • 過去の自分(子どもの頃の演奏レベル)を裏切っている、と思いたくない
  • 他の人(上手な大人)に並んでから出したい

特に C の方(きちんと弾けた経験のある方)は、この壁が強く出ます。「過去の自分のレベル」を聴いていた耳が、いまの自分の演奏を許せない。録音した瞬間にやめてしまう、というケースを、当教室でも何度も見てきました。

越え方は、**「人に聴かれない場で、聴かれる練習をする」**ことです。

矛盾しているように聞こえますが、つまりこういうことです:

  • 非公開の場に動画を送る(会員限定の非公開グループ、外部に出ない)
  • 手元のみの動画で構わない(顔も、本名も出さない)
  • 4小節だけでいい(完成度を問わない)
  • 同じ4小節を何度送ってもいい(失敗を残してよい)

この4つの条件がすべて揃ったとき、はじめて「演奏を聴かれることへの抵抗」が下がり始めます。一度下がると、再開後の半年で景色が変わります。

この設計は、PaletteTone の中心にあるものです。


第5の壁・退職後の方へ:時間がありすぎる壁

退職されてから再開された方は、ここまでの4つとは逆の壁にぶつかります。時間があるのに続かないのです。

理由は2つあります。

  1. 明確な「弾く目的」がなくなる(発表会も試験もない)
  2. 毎日のリズムを自分で作らねばならない(以前は仕事が時間枠を作っていた)

退職後の場合は、「1日10分でいい」よりも、**「毎日同じ時間に弾く」**を先に決める方が効きます。9:30〜10:00 を朝のピアノ時間と決めて、内容は問わない。これだけで継続率がはっきり変わります。

もう一つ、退職世代の方によく見られる悩みが、「弾く目的」の喪失です。これに対しては、「誰かに聴いてもらえる場」を持つことが、目的の代わりになります。発表会や試験のような外的な目標がなくても、月1〜2本でも誰かに聴いてもらえる場があると、練習の意味が戻ります。

私の生徒さんで、退職後に再開された70代の男性が、月2本の動画送付と、奥様(ピアノ経験者)との合わせを楽しみに3年続けられています。「目的を作る」より、「聴いてもらえる場を持つ」の方が、退職組には効くと感じています。


4つの壁の越え方まとめ

ありがちな思い込み越え方
第1の壁1日1時間練習しないと意味がない1日10分でいい
第2の壁過去の自分・他人と比べる先週の自分だけと比べる
第3の壁1曲を完成させなければならない4〜8小節ずつ進む
第4の壁自分の演奏を人に聴かれるのが怖い非公開の場で、匿名で、手元のみで聴かれる
第5の壁(退職後)時間ができたのに続かない毎日同じ時間に弾く+聴いてもらえる場を持つ

よくある質問

Q. 楽譜も読めなくなっています。どこから始めれば?

私の生徒さんでは、片手だけで4小節、手元のみの動画から始める方が多くいらっしゃいます。読譜の感覚は、弾きながら戻ってきます。最初の1〜2ヶ月は「弾く」より「楽譜を眺める」時間の方が長くて構いません。

Q. 1日10分で本当に上達しますか?

抽象的に「上達」とお答えするより、具体的にいきます。1日10分を平日続けて1年経った生徒さんで、ブルグミュラー25の練習曲を5〜8曲、丁寧に仕上げた方がいらっしゃいます。これは「子どもの頃の自分」と比べたら遅いですが、再開組としては十分です。

Q. 4小節ずつ進むと、曲全体の感覚が掴めないのでは?

通しで弾けるようになるためには、まず細部が弾けることが必要です。4小節を確実に弾ける状態を「次の4小節と滑らかに繋ぐこと」まで含めて積み重ねると、結果として通せます。フレーズの息継ぎや終止の処理は、4小節単位の練習の中で、添削を受けながら身についていきます。

Q. 録音した自分の演奏が聴けません

これはC層の方に特に多いご相談で、私自身、再開された大人の生徒さんに「最初の1ヶ月は聴き直さなくていい」とお伝えしています。1ヶ月経って、過去の自分への期待が少し薄れたタイミングで、はじめて聴き直す方が、続きます。


執筆: 垂野 鮎子(桐朋学園大学卒。ショパン国際ピアノコンクール in ASIA 銅賞・審査員特別賞、全日本学生音楽コンクール第2位。ピティナ正会員/指導者ライセンス上級。たるのピアノ教室主宰)

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